新地町の史跡

氏家閑存先生記念碑

  氏家閑存先生記念碑


 平成23年3月11日東日本大震災により生じた津波により観海堂は流失してしまいました。
 写真は当時の観海堂入り口に建立されていた石碑です。
 初代校長になった氏家閑存の死後、閑存を偲んで作成されたこの報恩碑も津波により数m流されていました。
 現在は、駅前開発を待って町の郷土資料倉庫に保管しています。












 学問之道有修己而及人吾友能之者為閑存氏家君君諱顕字子徳称晋閑存其号仙台人弘化四年奉藩命学
 昌平黌旁修長沼氏兵法安政元年帰国擢藩学養賢堂教授兼藩候侍講又設家塾名進修堂門生之多冠一藩
 明治戊辰之乱説南部津軽秋田相馬等諸藩叱奥羽連合之策困為参謀劇戦干小名浜平等各地乱平後歴遊
 京阪及諸国五年為宇多亘理二郡所聘設共立学舎於谷地小屋村而教授名観海堂実為東北郷学之嚆矢六
 年詔遍興小学於海内因以観海堂為小学一従文部省教則亦為県下諸校之魁後使男昭麻呂代教授君則至
 東京為芝私立中学教師又設中州学舎於牛籠而教授十四年帰国為谷地小屋福田駒峰三校長十六年以碩
 学鴻儒文部省特許為修身科訓導二十二年春罹病七月二十七日遂不起年六十二葬宇多郡新地村愛宕山
 君資性温恭篤実一接謦咳如坐春風和気中使人愛慕不能忘其病臥褥猶不廃教授用心之徳如此所著有
 孝経刊誤集註朱氏家訓類抄閑存堂詩文抄配野村氏生男女六人長男昭麻呂先没孫參顕嗣尚幼三男幹摂
 理家政又従事教育頃門人肯謀将建碑報恩請余文日叙其平生係銘日



   明治二十五年六月

       高等師範学校教授従六位 南摩綱紀 撰

       陸軍屯田兵少尉従五位勲四等 伊達邦茂 扁額

                 東京中根図書 広群鶴刻


 氏家閑存先生記念碑(現代語訳)

学問の道とは、己が学び、修め人に与え、及ぼすことです。氏家閑存君は、人に与えることが出来た人です。氏家君は、諱は顕、字は子徳、晋という名前で、号は閑存といい、仙台で生まれました。弘化四年、仙台藩の命令により、昌平黌で学び、その傍ら、長沼氏の兵法を修めました。安政元年仙台藩へ帰り、藩の学校養賢堂の教授兼藩主の先生(侍講)に抜擢されました。又、進修堂と名付けた家塾を設けて、藩内には塾生がたくさんいました。明治戊辰戦争の際、南部、津軽、秋田、相馬などの諸藩をまとめ、奥羽連合の策を練り、小名浜、平など、各地で戦いに参加しました。乱が終わった後、京都、大阪や諸国を歩きました。明治五年に谷地小屋村に共立学校を設立する為に招かれ、教授となりました。観海堂と名付け、東北郷学の嚆矢となりました。明治六年、「全国に小学校を設立する事」という文部省の命令に従い、観海堂を文部省教則に従った小学校として認められ、県下の諸学校のさきがけとなりました。後に、息子昭麻呂を教授代理とし、東京へ出て芝私立中学校の教師となり、又、中州学舎を牛込に設立し教授となりました。明治十四年帰国し、谷地小屋、福田、駒ヶ嶺三校の校長となりました。明治十六年、儒教の大学者であった事から、特別に文部省より修身か訓導の免許を与えられました。明治二十二年春、病に倒れ、七月二十七日、六十二才、遂に帰らぬ人となり、宇多郡新地村愛宕山に葬られました。彼はおだやかでうやうやしく、誠実で、実際に接した人は、春風のおだやかな中にいるような気持ちとなる、忘れることのできない人だと言います。彼が病気の間用いていた布団はいまだ捨てられておらず、彼に対するみんなの気持ちが分かります。彼の著書は、「孝経刊誤」「集註朱子家訓類抄」「閑存堂詩文抄」があり、野村氏が出版しています。彼の子供は男女各6人おります。長男昭麻呂は先に亡くなり孫の參顕はまだ幼いです。三男幹は家政をとりしきり、教育に従事しています。最近門人が報恩碑を建てようと計画し、私は頼まれて彼の平生の様子を語りました。

 明治二十五年六月

          高等師範学校教授従六位   南摩綱紀 撰

          陸軍屯田兵少尉従五位勲四等 伊達邦茂 篆額

          東京中根図書 広群鶴刻